「何のために生きているのか」、思考がグルグル回り始めたあなたのために、「生きる」ことについて掘り下げて書いてみた。
もう一度でも哲学モードに入ってしまった人は、今後もまた「何のため」と考え出すかもしれないよ。
もし暇だったら、良ければでいいんだけどこの記事を読んでもらえたらいいと思う。
絶対にためになるかどうかは断言できないけど、
目指すべき道や「生き方」について考えるキッカケを与えられるかもしれない。
僕が思うには、「みんな幸せのために生きている」という共通部分があるという事。
「何のために生きているのか」を考えてしまうのはどんなとき?
やっぱり、自分が充実していない感じる時、心が虚しくなった時。
一つ言えるのは、刺激っていうかワクワクがないっていうのかな。
とくに10歳以下の子供時代、楽しかった思い出あるよね。1つや2つくらいは。
「生きててよかった、長生きしたい」なんてセリフ吐いてた人もいたからね。
ワクワクしながらゲームしてるときや、初めての女の子とのデートっていう時は、あれやこれやって考えるから楽しい。
楽しいことだけに夢中になってる時は、楽しいことだけにフォーカスできる。
そんな幸せの真っ最中に、ニコニコ笑ってる時にさ、
いきなり静まり返って「何のために生きているのか」って考える人はまずいないだろう。
となると、「何のために生きているのかわからない」と考えてしまうのは、嫌な毎日を積み重ねてきたからなんだろうと。
生きることの楽しさが無ければエネルギーもないし、ぼんやりする暇ある時に考えてしまうよな。
誰にも必要とされなくなったとき
友達もいなくて、家族に見放されたときとか、恋人にフラれたときっていうのは辛い。
誰も構ってくれる人も助けも求めてる人もいないから孤独感に襲われるんだけど、
何よりも、「この人のために頑張りたい」というものがなくなるんだよ。
個人的な話だけど、昔こう思ったこともある。
「別に俺が死んだって誰も気にもしない、悲しむ人もいない。地球上から一人でも消えれば環境のためになるかな」
なんてことも考えたこともある。ネガティブ人間だからね。
社会の使い捨てゴマであると感じるとき
企業や経営者の多くは、感情論抜きの利害一致で考えるから、
ホントに「利益がプラスかマイナスになるか」で取捨選択する。
もう嫌だと感じることを口から漏らせば、
「君の代わりはいくらでもいるから。嫌なら辞めれば?」
こんな言葉を聞いたときは、部下を商売道具としか見てないのかって、思ってしまうよね。
「道具としてのために生きてるの?会社のために生きなければならないの?」ってなるわけだ。
僕は「使う」という言葉に対して、昔から凄い違和感があった。
日本は資本主義。評価の世界だから、転がり落ちたときは、
「なんの使い物になくなった人間はなんの価値があるんだ?」
「なんの役に立つかわからないのに、誰のために生きているんだ?」
そんなことも考えてしまうこともあった。
同じことの繰り返しに虚しさを感じるとき
ただひたすら雇われることを考えて、目の前の仕事を覚えることに必死になって、
いつも目の前の仕事だけに囚われている人ほど、ふと考えてしまうんじゃないかな。
お金もらって生活はできていても、毎日毎日、朝から仕事して、食事して、スマホいじって寝るだけ。
慣れ始めて数ヶ月~数年経つ頃に、哲学に目覚め始める。
生活は安定しているんだけど、何かが足りない。何かが…
楽しくもない、仕事漬けの人生が、自分にとって生きる意味なのかどうか…
ただただ「自分が生きてるだけ」を維持して、何の意味があるんだ?
誰かの役に立ってると実感したい… 誰よりも優れてると思われたい…
きっと、承認欲求というものが芽生えてるんだな。
誰にも自分の気持ちが理解されないとき
自分の考えや本音に共感してくれる友達が欲しいよね。
家族すらわかってくれないというのは、心が虚しいし、自分一人で抱え込んで生きなければならない。
「甘えてるだけでしょ」
「みんな辛いことを我慢してるんだよ」
と言われては話はそこで終わり。
自分らしく生きれず、他人のために自分を押し殺してまで生きることに疲れて、疑問を感じるもんだ。
苦労するためだけに生きて、生きることに疲れた… となるわけだ。
そんな有名人の中でも、自分の生きる理由や自分の在り方に苦悩しながら生きている人もいる。
観衆の目を気にしながら、発言に気をつけなければならないし、本音を言えない。
1人でも共感してくれる人が近くにいたほうがいいから、ネットでもいいから探すしかないな。
辛いことばかりで幸せが来るのか疑問に思うとき
学校を卒業、企業に就職、誰かと結婚して子供育てして、、、
みんな自分の幸せや家族のために頑張ってるのにね。
そんなマニュアル化されたレールでも、なかなかキレイに進むことってない。
スポーツでも芸術家でもなんでもそうだけど、思い通りにいかない時ほど考えさせられるときがある。
人間関係には一生悩むし、人生の大部分は仕事に占められてしまうし。
ほとんどの人は仕事のことで一番悩むことが多いんだけど、さすがに年から年中毎日上司に怒られたりもすれば、
「本当に報われる日が来るの?」って疑問に思ってしまうこともあるある。
褒められることもなく、役に立てることができないこんな自分が「生きてる意味あるの?」と考えてしまう。
将来への不安が頭が離れない
現代の一般庶民なら、特に経済的理由で一番悩むことが多いなぁと。
このまま働いていても昇給できるかどうかもわからないし、貯金や資産となるものは大したものはない。
もう脅迫観念といつも隣り合わせ。
ローン組んでまでも車や家を購入するのだから、何かの事故で仕事を失って今の生活を無くなってしまうときのことを考えたら不安になる人もいる。
結局は仕事というのは切り離せないけどね。
たまにベッドに入って寝る時なんか「俺って何のために生きてるんだっけか?」と、何を目標にしていたか見失ってしまうときがある。
他人のため? 自分のため? 子供のため? よくわからない。
ついでに考えてしまう「幸せって何?」ってこと
あなたの幸せは何?って聞かれたら答えれるか。
女性は結婚して子供産んで家庭を持つことが幸せとよく聞くし、
男性ならやりがいがあること、競争で一位とか達成感があることを成し遂げたいと言うよね。
その目標を達成するために生きているのが、生きる意味なんだろう。
どうなれば幸せなのかは人によって違うんだけど、男にしろ女にしろ「幸せ」がなんなのか見失ってしまうことはある。
本当に幸せだと感じてるなら「何のために生きてるか」とかまず考えないんじゃないかなと。
父親と母親が笑った姿をあまり見たことがないとか、複雑な家庭で育った人なら「家族を守るため」なんて中々そう思えないこともあるし。
両親からの愛情を感じられずに育った人とか。
実際、機能不全家族で育った友人が、
「生きてる意味がない」とか「なんかもう永遠に眠りにつきたい」とかボソッと吐きながらリストカットしてたから。
その頃の僕には、その友人に対してどう接してやればいいかわからなかった。
実は幸せというのは普段の日常に隠されている?
普通、目標を達成できた時は幸せなんだけど、その幸せはその瞬間だけ、もしく少しの間ぐらいなんだよね。
当たり前の日常に慣れてくると刺激もなくなるから、ありがたみの感覚も薄れていくんだろうと思う。
小学校の頃、外食に連れてってくれるだけでもテンションがすっごく上がっていたことがある。
海や山に連れてってくれるだけワクワクしてたし、子供の頃は、ほとんど楽しいことしか考えてなかったと思う。
キャッチボールだけでも時間気にしないで夢中にもなっていたこと、くまのプーさんで下らないオママゴトしているだけでも、なんか楽しかったよね。
あの頃の嬉しい楽しいの感覚、思い出せるかな?
なのになぜだろう?
今の時代、中学生の年頃で「自殺したい」って子がチョクチョク表れ始めてるなんて。
日本は衣食住が充実してるけど、心が貧しい人が多い
一般人は住む場所も食べる物に困ってはないんだけど、自分より充実している人を見ると羨ましいと思う。
とくにテレビや雑誌を見ていると毒されていくな。
・自分よりオシャレで高価な服を着ている人、
・自分より高い給料もらってる人、
・年中海外旅行に行きまくりの人、
・日本には自分より楽しそうに暮らしてる人、
こんな人達を見てしまうと、欲望に煽られて羨ましく思うよね。
他人に憧れたり、他人と自分を比較しあったり、無理に食費を削ってまで高い服を買ったりしようとする人までいるし。
上を見れば見るほどキリがない。
ハングリー精神があることは成長のためにいいことなんだけど、キリのいいとこで欲をストップかけないといけないね。
「本当の貧乏とは、金や物が貧しいのではなく、どこまでも欲望が尽きない人」のことだって、世話になった家庭教師から聞いたことがある。
お金持ちになることを目的にしたら不幸の始まり
もちろん生きるために、衣食住や病気のためにお金が必要なんだけど、お金だけ豊かにしても意味がない。
確かに潤沢なお金があれば、やりたかったことや買いたかったもの買えるし、経済的にも心も豊かになるさ。
でも仮に金持ちになったとして、その生活水準が上がって安定してきたころに、またさらなる欲望が出てくるだろうし。
今度はもっと、500万稼げるようになったら1000万稼ぎたいとか。
見栄とお金のための働き三昧の生活は、それは本当に、あなたが求める、幸せな人生と呼べるのか。
大切なのは、稼いだ金で何をやりたいかを考えることが大事だということ。
お金が欲しいしか考えれないのは、本当に心が貧しい。
過度に他人に良く思われようとする人も貧しい。
幸せに生きている人の中で、お金と見栄を張ることに「生きている意味」を感じられるてるかもしれないけど、それがいつまで続くのか。
生きる理由より、死ぬまでにやりたいことを考えてみようか
正直、僕は哲学者でもないし、霊能者でも宗教を信仰してる身でもないんだけど。
神様が生きる理由が付けたどうかなんて誰にもわからないと思う。
何のために生かされてる理由を考えるなら、親に聞いた方が早い。
子供に自分の事業とか継がせようとする親もいるし。
それよりも、今自分がやりたいことを直観で考えてみるといいよ。
- 世界を旅したい
- スノーボードしたい
- マンガビデオ作りたい
- スカイダイビングしたい
- ハングライダーに乗りたい
- プレステ4買いたい
まだまだあるけど、これは僕の「やりたいこと夢リスト」。人によって色々違うだろうけど。
まず普通の親だったら、子供がただ幸せに生きてくれるのを望むよね。
そのために、ちゃんと良い会社に就職して金貯めろと親はうるさく言うわけだけど。
とはいっても、使命感や好きで仕事やりまくってる人にとってはいいけど、そうじゃない人は仕事漬けの毎日じゃ心が病むよなぁ。
いちいち生き方について周りの意見に流されてたら思うように生きれないし。
それよりも、人生の大半をやりたいことで過ごして、楽しい人生だったなぁって人生を終えることが理想なんだろうな。
ここまで読んでくれた人は、「いやでも仕事しないと、やりたいどころか生活もできないじゃん!」って思ってるかもしれない。
確かに、仕事あって今の生活があるわけだ。
でも一応だけど、組織に属さないで、自分で稼ぐ方法を探してみただろうか?
自分の力だけで生きることも可能だから。
とく「自分で稼ぐ」っていうのは、学校で教わらないし、踏み込んでみると常識が一変するかも。
少しでも自分で稼ぐ仕組みができれば、自分の時間を作れることもできるし。
恋人と一緒に遊ぶ時間、バンド活動に費やす時間、ゲームをとことんやる時間、行きたかったところも行ける。
そんな心の中で実現したかった生活を、本当に実現できるのだとしたら。
あと、それでもまだ、今の人生に生きる意味を見いだせない、生まれた意味がわからないというのなら、こちらも合わせて読んでみてくれ↓
ここまで読んでくれてありがとう。
あまり深く考えて頭痛くならないようにね。
ではまた!