ペットの死で後悔の念を抱いてしまうのも、無理もない話。
真面目過ぎる人ほど、自分の行ってきたことが、、、
実は間違いだったんじゃないかって、ふと考えてしまうものなんだ。
もっと接する時間を増やそうと思えばできたはずなのに…
もっと栄養管理に気を配っていれば、長生きすることができたんじゃないか…
どうしてペットの苦しいというサインに気付いてやれなかったんだろう…
みんな、後悔だと感じてしまうのは、何かしらの未練や、過ちだと思ったことを引きづっているんだろうなって思う。
自分の不注意でこんな終わり方だなんて…
自分の行いに悔やむばかりに、涙が出てきて、心が悲しい気持ちでいっぱい…
愛犬がいなくなった日常生活が、これからもずっと続いていくばかり…
時間というのはすごく残酷だ… 止まってくれない… 待ったをしてくれない…
愛犬にしてやれなかったことをしたいのに、時間は巻き戻ってくれない…
それに、どこかの誰かが励ましのつもりでかけてきた言葉は、より人間を煩わしいと感じさせる。
もう前を向け! 仕事休むな! 自分の人生があるだろ!
とかいうそんな、ありふれたセリフを。
…そんなことはわかってる…
わかってるけど、悲しい気持ちで頭から離れないんだよ…
僕もそんなふうに、過去に飼っていたペットの死による後悔で、ずっと引きづっていたのだけれど…
今も完全とは言えないけど、時間が経ってきては、それなりに心が落ち着いてきたかなとは思う。
僕もその体験談も兼ねて、ここに書き残していくよ。
目次
愛犬の死は、命の尊さを教えてくれたから
昔の話から入るけど、仕事中に家族から愛犬が亡くなったと告げられた経験。
柴犬の雑種で、オスにしては16歳と平均より長く生きたほうだと思う。
僕だけでなく、家族全体で食事や毎日の散歩やらと面倒見ていたから、最後の最後まで歩けるぐらいだった。
その点では健康ではいられたはず。
でもそれとは反して、愛犬が亡くなる年は、僕は仕事のことで頭がいっぱいいっぱいだった。
ほとんど愛犬を家族に任せてしまって、散歩は愚か、触れ合う時間すら忘れてしまっていて。
「他に面倒見てくれる家族がいるから」という理由に、依存してしまっていたのが情けない。
愛犬が16歳になって、「そろそろ亡くなってしまうのかな」と、心の準備もしていたつもりだったけど、
「今のうちに愛犬にしてやれることをしてあげたい」と考えるも、「でも今の自分の仕事のほうなんとかしなきゃな」と、
仕事を言い訳にウヤムヤにしながら、時間だけがヅルヅルと過ぎ去っていってしまった。
亡くなる一週間ぐらい前から予兆はあったのに。
いつもより食欲不振になっていて、元気がない様子がないことはわかっていた。
だけど、僕の親は「風邪で体調不良だ。治ったらまた元気になる。」と言うものだから、その言葉を、その言葉通り受け取ってしまった…
今思えば、あの家族の中で些細なことに気付いてやれるのは、僕ぐらいしかいなかったのに…
「あの時、僕が面倒を見てやっていれば…」って、未練たらしく後悔するばかり…
あの時やっていた仕事なんて、数日間でも休むことができる職種だったのに…
その愛犬の最後の瞬間まで、一緒にいてやることができなかった…
なのに、心のどこかで「まだまだ生きていてくれるだろう」と、勝手に思い込んでいた自分を責めたくなった…
ペットを失ってから、一日一日という時間がどれだけ大切だったのか、シミジミと思い知らされた…
自分より先に15年で逝ってしまうなら、「また悲しい思いをしたくないから、もう動物は飼いたくない…」と思うこともあった。
あの頃の、一緒にはしゃいだ愛犬との思い出が走馬灯のように蘇ってきた。
あの散歩コースはよく通ったなとか、あの場所でボール投げして遊んでたなって。
だけど、今だから言えるのは…
ただ「長く生きれたから良かった」ということではないんだわかった。
愛犬だけじゃなくて、愛犬と一緒にいた人間も、どれだけお互いに「充実できた」と感じたかなんだっていうことを。
ペットの死の後悔は消せないとしても、共に過ごした日々だけは消さない
無理に忙しくしようとして、気を紛らわそうとしても、ふと思い出してしまうんだ。
無理して悲しくないように振舞っていても、辛いものは辛かった。
だから、無駄なプライドは捨てて、異性の友達に相談しては、気持ちの赴くままに、悲しみや愚痴をぶつけたりもした。
それで一時は、少しは気持ちが楽になったかな。
でもやっぱり、ふと亡くなった愛犬のことを思い出すときは時々ある。
ペットの死に対しての後悔は消せないし、僕はその愛犬と過ごした日々を消せない。
むしろ消したくないし消さなくていい。
だから、それでもいいじゃないかって。
人間って、どんなに気をつけてても、どんなに情報収集してても、どんなに学んでても、
どうしても過ちを犯すことは、どうしてもあるから。
「あの時、気づけなかった自分だから仕方ない」と、許せるとこは自分で許すしかない。
そうやって、自分で自分の首を締めてるヒモを緩めてあげるしかない。
愛犬が亡くなっても、自分の人生は続けていくからさ。
そうはいっても、後悔をバネにして無理やり頑張る?
過去の出来事を新しいペットを飼って、思い出を塗り替える?
でもな、そんなことしても、自分で自分の心をエグッてしまうんだ。
この先、新しい誰かと出会って、新しい家庭を築いて、新しいペットを飼って、
過去の愛犬のことは何事もなかったような、そんな生活を送っている未来もあるかもしれない。
だけど、新しい生活でどれだけハッピーになろうが、昔あった悲しい出来事は消えてはくれない。
だから良かったことも悪かったことも全部ひっくるめて、僕はその過去を背負いながら生きていくことにした。
きっとそれは、僕以外の誰かにとっては、心に刺さったトゲがずっと抜けなくて、痛いままなのかもしれない。
だけど、「時間」は味方をしてくれる時がある。
「時間」は、いつも残酷じゃない。
「時間」が過ぎていくことで、時々思い出すことはあっても、少しでも心の痛みを緩和してくれるはずだから。
振り返るのは「反省」じゃなくて「愛しさ」を振り返るんだよ

ここからは、ペットの死に対して後悔の念を抱いている人達に向けて、伝えていきたい。
それは過去の自分を含めて、語りかける意味でも。
「あのペットとあんな遊びをして楽しかったなぁ」と感じたことを思い出してみよう。
その愛犬と触れ合ってきた日々を、何もかも含めて「一緒に過ごせて良かった」と考えてみるんだ。
逆にそれが、ますます寂しさが募ってきて、時には涙が出てくることがあるかもしれない。
「なんでもっと気にかけてやれなかったんだろう…」
「最後の最後まで一緒にいてやれなかった…」
というような後悔を、いまだにずっと引きづっているかもしれない。
だから無理に、「自分を責めるな」とか「割り切れ」とは言わない。
でも、「100%自分に非がある」とまでは思わないでほしい。
「あの頃の自分は、ベストな方法を思いつけない自分だった…」と、
少しでもいいから、「どうしても仕方がなかった」と自分自身を許しを与えてみてくれ。
少なくとも、一緒にいたペットが、喜んでいた姿をたくさん見てきたよね。
「ご飯になると喜んで、元気に食べる姿」
「いつも自分が行く所にはくっ付くように来てくれた愛犬」
そんな愛しさのあった日々だって、後悔以上にたくさん積み重ねてきたよね。
だから、愛犬と過ごせた日々を誇りに思ってほしい。
心地良いと思える環境で育ったペットは、幸福でいられる時間がたくさんあったということだから。
それに、ペットの死に後悔するほどとても辛いという気持ちがあるということは、
それに比例して、ペットに対する愛情がそれだけ深いと言えることでもあるから。
亡くなったペットに想いは伝えることはできるから
たとえ最後まで一緒に居てあげることができなかったとしても、
そのペットは飼い主さんのことずっと、最後の最後まで思っていたはずだから。
人間と同じように、ペットにだって心があるように。
ペットの体が亡くなっても、自分が伝えたい想いを伝えることはできる。
だから、強く「想う」だけでも、亡くなったペットに伝わることができるから。
もし、亡くなったペットに対して想いが伝わったか確認したいのなら、「チャネリング」をやってみるのもいいかもよと。
まぁ「見えない力」とか信じるのであれば、だけど。
チャネリングっていうのは、死者や見えないものとコミュニケーションする手段のこと。
日本にいる「イタコ」の口寄せ(降霊術)も、チャネラーの1つ。
でも長い期間、訓練しないと習得は難しいらしい。
だから、チャネラーと呼ばれる人に頼むほうが無難かなと。
亡くなったペットのメッセージや感情を、チャネラーが言語化して伝えてくれるから。
最後になるけど、ペットの死に対して後悔はあるということは、そのペットへの愛情もあったということだから。
今は無理せず、手を抜きつつ、暇があったら自然のある場所でゆっくりしてみてほしい。
森のささやく音、川の流れる音が、辛い記憶も緩和してくれるからさ。きっと。