「後で不幸なことが返ってくるんじゃないか…」と、強迫観念に駆られてしまうことはあるのかもしれない。
きっと、仏教の教え「因果応報の説」を信じる人ほど、「自分には幸せになる資格がないんだ」と考えてしまうんだろう。
過去や前世からの善悪の行いが引き継がれてるだろうから、自分の未来は良くならないかも…みたいな風に。
たとえ何も良い事も悪い事していないのに、自分だけこんなに良い思いをしてたら、「なんか申し訳ないな」と感じてしまうことはあるよねと。
だから目の前に幸福が訪れても、心地よく受け入れる気になれないというか。
これからの未来だけじゃなくて、今自分が幸福だと思うものに対して、罪悪感を感じていたり…
でもね、どんな人間でも生きている時点で、幸せになるチャンスは遅かれ早かれ、あるはずなんだよ。
それに、幸せになる資格がないだなんて自分で勝手にそう思ってるなら、
逆に言えば、自分で勝手に「幸せになってもいい」と思うことだってできる。
「どうしたら幸せに感じれる自分になれるのか?」に対しては、「心の持ちようだけで十分だよ」と言える。
どういうことか? そんな話を持論を用いて伝えていこうと思う。
幸せになる資格がないというか、「クレクレ精神」な人は難しいかも…
まず最初に話しておきたいこと。
基本的には、幸せになる資格がない人なんていないと思ってるんだけど。
資格がないというよりは、幸せを見出だしにくいかな…という考え方がある。
たとえば、赤の他人に対してあたかも図々しく、
「奢ってちょうだい」「あなたがやって」「連れてって」みたいな、ためらいもなく「クレクレ」と、言ってしまう人。
やってもらったことや与えてもらったことに対して、「喜び」や「感謝」の反応を伝えれないと、相手の気持ちも萎えてくるかもしれないから。
他人に「やってもらうのが当たり前」だと思っているうちは、自分の中にも喜びも感謝も安心もないだろうと。
「クレクレ精神」は、他人にじゃなくて自分に対してならいい。
つまり、自分で「自分のしたいこと」を与えてやるということ。
あと「いつまでも当たり前が続くと思うな」とまでは言わないけど、
毎夜「今日も家族や恋人と一緒にいられて良かったな」とか、心の中で唱える習慣をつけておくといいかもしれない。
スピリチュアルっぽいけど、そうすることで幸せエネルギーの波動が出てくると言われるから。
ただ例外的に言えば、もし「家に居させてもらえるだけでも感謝しろ!」みたいに押し付ける親の場合は、
別にそれはそれで、「好きで生まれてきたくて、ここに生まれてきたわけじゃない!」と言い返したいなら言い返してもいい。
「別に面倒見られなくてもいいから!」と言えるぐらいの気概があるならいいんだ。
「捨てる勇気」や「自分のプラン」があるのなら。
罪悪感を感じていても、自分を貶めなくてもいいんだよ
少なくとも、自分は感謝は伝えていると思っているならOK。
でも、「自分なんか…」みたいに思ってるようであれば。
これまでに家族に失望させたり、迷惑をかけてきた。
いつも私のために頑張っている母に対して、自分勝手なことばかりしてきた。
こんな身勝手な自分なんて、幸せになる資格がないのは当たり前。
だから申し訳なくて、ふと涙が出てきたことが、あったよね。
こんな自分のことしか考えてない自分なんて、誰かを好きなる資格も、幸せになる資格がないんだって、そう思ってしまうんだろう。
でもね、とりあえず、自分のことを自覚できてるならいいよ。
生きていれば誰だってさ、誰かに迷惑もかける。誰かを傷つける。泣かせることだってある。
失敗を起こさないようにって思っても、どうしても起こしてしまうのが人生だから。
もちろん、そんなこと起こらないほうがいいんだけど、別に起こったって、いずれ新しい幸せがやってくるからさ。
人生に起こること全て、辛い事も、悲しい事も、怒った事も、無駄な事も、なにもかも幸せになるための道しるべだよ。
だから、今起こっていることも、いずれ幸せになる道への案内図だと、そう思ってみてくれ。
自分を戒めるつもりで自分を卑下するんじゃなくて、
「良くないと思ったこと」を変えるために、「繰り返さないための教訓」を自分の中にあるなら、それでいい。
そして、向きべきものに対して自分なりに行いを改めていけるのなら、それでいい。
だから不幸に夢中にならなくてもいいんだ。
「自分なんてこの程度のものがふさわしい」とか、
「こんな自分だから幸せになれない」とか、自分を檻の中に閉じ込めなくてもいいんだよ。
「我慢した分だけ幸せがやってくる」とか、そんな日本の古臭い考えに縛られなくていい。
「こんなんでは幸せになれない」とか、誰かが言った言葉を鵜呑みにして、自分を抑圧しなくていい。
そんなに追い込まなくたって、能力がなくなったって、すぐに幸せになれるから。
あなたが今まで何をやってきたかはわからないけど、よっぽど罰として苦しまなきゃいけない理由なんて、そんなないはずだよ。
幸せだと思うことに対して申し訳ないのなら、喜びを伝えてみよう
「なんか頼っちゃってごめんね」と相手に伝えても、
「いやいやそんなことぐらい大丈夫だよ」と返されるけど、実際心の中ではどう思ってるんだろう…
と、そんなふうにマイナスに考えてしまうのも、まぁ無理もない。でも大丈夫だよ。
嬉しいことに対して、素直な気持ちで受け取れないなら、「嬉しい」と声とジェスチャーで表現してみる。
相手も嬉しくなるだけじゃなくて、自分の麻痺しかかっている感情をほぐすこともできるから。
感情のラベリングと言って、「嬉しい」と発言するだけで「脳」も嬉しいと感じるようになるから。
実際、「感謝の気持ち」と共に、「楽しそうにしてる姿」を見せてあげることでも、相手が言う本当の「大丈夫だよ」が、どれほどのものかわかる。
「私がこんなに苦労してるに、なんでアンタだけ楽しそうに…」っていうのなら。
すでにこじれてる関係と言えるわけだから、距離の置き方を考えないとね。
その人も多分、心が幸せじゃなくて、他人を妬んでしまう人なんだろうけど。
とはいえこれまでに、他人が幸せそうにしていることで、自分も嬉しくなったことはないだろうか?
それなら、「大切な人が幸せ」=「自分も幸せになる」という図式にできる。
大切な人が喜んでくれてる姿を見ると、自分を幸せな気分になるし、それを壊したくないと思うものだし。
まぁ、他人に依存しすぎて、相手や自分が苦しくなることもあるかもしれないけど、覚悟があるのならそんな人生でも悪くはない。
あと、時間があれば誰かに親切をしてみるといいさ。
「何かしてあげたんだから、お礼くらいないの?」と、見返りを求めないつもりで、色んな人に親切を。
「一人に限らずがポイント」で、そのうち誰かと幸せを見いだせることもあるから。
与えてくれたことに対して、無理に「お礼をしなきゃ」と気張る必要もないよ。
ギブ&テイクで、お互いが得になるように、何か形として返報しなきゃって、無理に思うこともない。
友人間や家族や恋人だけじゃなく、形としてのお礼もいいけど「感謝」や「喜び」を伝えられるだけでも、相手が嬉しく思うはずだよ。
またスピリチュアルっぽい言い方になってしまうけれど、ただ良い気分で楽しそうにしてれば、勝手に良い事も自分に寄ってくるよと。
あとは、自分にやってきた幸せを、ただただありがたく、喜んで受け取ればいいだけ。
あなたは幸せになっていいんだ。
「自分は幸せになっていいんだよ」って、何回でも自分に言い聞かせてみてほしい。
「自分が幸せになってもいいよ」って、自分に許しを与えれるまでずっと。
今自分が置かれた環境、今自分が所持している物、今自分が繋がっている人、
今自分に与えられたものの中で、自分の幸せを見いだせる可能性は、いくらでもあるはず。
幸せになるのに資格なんて、誰かが決めるものじゃないんだよ
人の幸せの基準っていうのは、漠然と広いものだよね。
「タワマンに住めるほど金持ちになれば幸せ」って人もいるし、「毎日ご飯三食食べれるだけでも幸せ」っていう人もいるから。
「三食食べれるだけ幸せ」っていうのなら、今この瞬間から、幸せになっていいんだよ。
他人の物差しで、自分の幸せの基準を決められる必要なんてない。
幸せとは、「なる」ものじゃなくて、自然と感じれるものだから。
なのに他人から与えられた情報に振り回されてないかな?
高い服着て、高級車持って、豪邸にも住んで、VIPなクルーズ旅行にも行って…
もちろん、そんな寝ている時にだけ出てきてくれる夢のような生活は、一般人が実現するのには、相当な努力を強いられるだろうさ。
だからといって、他人から見て「幸せそうに見られる」のが幸せなことだと思わないよね?
どこかのメディアで流れてる、誰かのラグジェアリーな生活風景を見せられては、
羨ましく思っては、加えて「比べて自分なんて…」なんて思う人もまだまだいるだろうな。
それを見栄っ張りで悔しさをバネにしたり、羨ましさという妬みをエネルギーにできるなら良いけど。
競争や張り合うことが趣味だったり、誰よりも羨ましいと思われることが生き甲斐ならいいんだ。
でも死に物狂いまでして、それが「自分のやりたいことなのか」「そんな生活が夢なのか」、よおく考えてみてほしい。
たとえば本当に車が好きで、性能も乗り心地もこだわるほど車を持つことが幸せなら、それならそれでいいんだ。
自分の「なりたいこと」や「やりたいこと」が達成できれば、幸せだと思えるよね。
マンガ家だって、たとえ生活がジリ貧で、他人からは惨めな生き方だと見られても、、、
マンガを描いている時や、マンガに対するコメントを見てる時が、本人にとってそれが幸せの瞬間なんだよ。
要は、「他人の生き様」が「自分の幸せの目標なんだ」とか、差し替えられていないだろうか?
自分の趣味でリラックスできる時間を削ってまで、高嶺の花ような生活を実現したいか?
お金を稼ぐことだけ必死になって、後から「自分のやりたいことってなんだったんだろう?」と、自分自身の幸せを見失ってしまう人を僕は知っている。
どれだけ年収を上げても、どこまでも他人と比較しては「羨ましいからもっと年収あげなきゃ」。それじゃキリがない。
そして身近にいる大切だと思っていた家族やパートナーの存在に対してまで、意識を向けてやることが薄くなって。
気付いたら、家庭崩壊してたなんて成りかねない。
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ともあれだけど、幸せは待つものじゃないことはわかると思う。
資格があるかどうかなんか関係ない。
「幸せになろう」と思う意思があれば、まずそれでいいんだよ。