「依存するな!」「自立できるようになれ!」というのは、
高校生ぐらいから親や教師やその他の大人たちから、どれだけ言い聞かせられてきたか。
世間から見て恥ずかしくない自分になるために、依存したくないし自立したいって思うわけで。
でも、この人間社会の中で生きてれば、働いていようが、どうしても依存してしまうんだよということ。
それなのに、仕事だけでなく「俺は一人暮らしして自立してるんだぞ!」って思ってる人ですら、エネルギーがない人がどれだけ多いんだろうと。
なんでこんな話をするのかというと、
ちょっと地雷屋さんという人から、「依存は善だ」という話を聞いて。
依存したくないとか自立したいとか思ってる人に、少し聞いてほしいと思ったから。
目次
社会は依存だらけで成り立っている。浅くて広くて見えないだけ
改めて考えると、自立とは?
「自分1人でも稼いで生計を立てれるようになること」
「どんな問題が起きても自分で解決できるようになること」
「自己責任を持てたり自己管理ができるようになること」
とかそんな感じ。
それでも、お客様からにしろ会社からにしろ、お金をもらってることですらすでに依存してることだから。
保険にしろ、修理にしろ、専門的に難しいことは、お金を払って業者に頼むってことも、すでに社会に依存している。
だから「誰にも頼らずに俺一人で生きてきた!」っていうのは嘘。ありえない。
奥さんは旦那に養ってもらってるのは直接的に依存してるけど、
誰もが知らない多くの人にも間接的に依存しているということ。
・アパートに住めてるのも物件所持の大家さんのおかげ。
・車が走れるのも道路工事や整備工場の人達がいるおかげ。
・治安を今以上に悪化させないでくれる警察がいるおかげ。
・ゲームや動画などの娯楽を楽しめるのも技術者のおかげ。
・農作物を生産してくる農家、食材を揃えてるスーパーの存在。
・治療ができる医者がいたおかげで、今の自分が生きている。
社会にも依存してるのは確かだから、これからもずっと、色んな人に依存しあって生きていくから。
むしろ、間接的にだけでなく直接的にも多くの人に分散して頼っていい。
僕がこうやって記事を書いていられるのも、パソコンを開発してくれた人や、サイト作成ツールとか開発してくれた人がいてくれたおかげ。
何もかも一人でプログラミングから始めて、ここまでサイト作ったりしようと思ったら無理。
だから会ったことない誰かに対しても、すごく感謝している。
こうやって検索エンジンから情報を求めて読みに来てくれる人がいるから、僕にも役割ができる。
僕だって、誰かの本とか情報を元に参考にして、自分なりにまとめて書いてるわけだから、情報に依存してるってこと。
「一人で稼いで生きてるんだぜ!」って言ってはいるけど、
こんな僕でも、こうやって誰かの情報を参考にして、何かを克服したのだって「見えない誰かに依存してるおかげ」だから。
なぜ、依存したくないというのは孤独の道を歩む?
「誰にも依存しないことが大人だ!社会人だ!」って世間のみんなが言うもんだから、
「他人に依存しすぎてはいけない!だから依存したくない!周りに恥ずかしくてと顔向けできない!」って感じている人も多いはず。
抑圧されすぎてるなと。
完全な自立を目指すっていうのは、
他人との繋がりを断ち切ることなんだよと。
待っているのは、誰にも求められない孤独な世界で、虚しくて苦しい。
自立すべきと言う人は、「何でも人に頼らないで自分で解決しろ!」と強く主張するけど、
「人の手を借りない、自分で解決するのが一人前の大人だ」とも言う。
やりたくないこともリスクも自分で背負って、弱点や不得意なことも無理やり克服しようとか。
確かに、弱点ってある程度は克服はできることが大半だけど、みんな「自分で何でもできてが立派な大人だ」って言い聞かせられてる。
弱みやできない事をさらけ出すことで、得意な人に役割ができて輝かせることができるのになと。
理想と現実に生まれているギャップがあるのは、
自分の不得意なことを克服したところで、周りの人間からは、さらなるレベルアップを求められて余計に苦しくなるのとか。
まだまだ社会では、「何でもできる丸形人間になれ!」というような不得意なことも要求されたり、不得意なことなことだけでやり続けて我慢してる人も多い。
丸形人間になって、一人で何もかも全うしようというのは、、、それって、他人に役割を与えないようにしようのと一緒。
だって、他人からは自立してる(もしくは見せかけてる)ように見えてるから、「この人は何でもできるから、ほっといても大丈夫」みたいな。
何でもできる丸形人間って、面倒も見られることないってことだから、他人に役割を与えることができない。
仮に、自立を目指す人が、他人から頼られることといえば、
他人からは演技した姿なら求められるばかり、でも本質の自分は求められない。
空虚でしかないこんな世界。それが孤独。
何よりみんな、いらない気遣いもしすぎて「負担をかけてはダメなんだ」と思いすぎるがゆえに、頼ることを拒否しちゃってる。
本当は誰かに助けてほしい、でも依存しちゃいけないと自分を抑圧する。
他人だって「ありのままの自分で役割を与えられたい、頼られたい」と思ってるはずなのに、みんな遠慮して黙ってる。
「助けてやることはできるけど、自立させなくては! 甘やかしてはいけない!」とか思いすぎるがゆえに、繋がりを自分で切ってしまう。
誰かの役に立ちたい、必要とされたい。
頼られたいことがあるけど頼られない。
すぐ隣りどうしで誰かがいるのに、この世界には虚無が溢れている。
これがマザー・テレサが言っていた、
「究極の不幸とは、誰にも必要とされない、孤独を感じること」。
依存自体が悪いことじゃなくて、相手にとって嬉しい依存が良いということ
一人一人が持ってる、ありのままの強みに依存していいよってこと。
依存とは、他人に役割を作るための行為なのだから。
良い依存とは、相手の負担にならない依存や、依存すればするほど相手が元気になる依存のこと。
例えば、ある母性本能強い女性がいたという話があって。
その女性はすごい面倒見がいいだけでなく、彼氏に赤ちゃんの振る舞いすら要求するほどの母性本能を持つとか。
いつも家事から掃除やら何から何まで、彼氏の面倒見ていないと気が済まないくらいとか、極度の依存症にも捉えられるだろうけど。
むしろ、どんなに甘えられても苦にならない女性らしく、甘えられれば甘えられるほど輝く女性なんだと。
まぁ丸投げで常に甘えていたい男性ならマッチするんだろうけど、一般の男性からしたら重くなってくるだろうなと。
要は強みに依存しあうということが肝。
ありのままの自分で、ありのままの行動で喜んでくれる相手がいれば、
それをひたすら求めてくれる人がいたら、すごく良い依存になるし、お互いにとっての居場所にもなる。
実は「自立しろ」って言ってる人ほど、心の中で「構ってほしい」って気持ちが潜んでるのに、
素直に「一緒にいてくれ」とか「話し相手になってくれ」とか言えない人、多いんじゃないかなとも思う。
逆に、「頑張ってるから人を喜ばせれてるんだな」って思ってるうちは、苦しいサイクルに入ってる。
頑張って自分じゃない自分を演じないと、他人に喜ばれないのなら、
それは自分の強みでもない、自分の居場所でもないということ。
あとは、得意じゃない事、頼られたくないことで頼られすぎるから、気がおかしくなる。
介護が得意じゃない人が、親に依存され過ぎて「介護殺人」を起こしてしまうのもそうじゃないかなと。
依存先が1つしかないのがダメであって、依存先を増やすことが自立
確かに、ニートの人は衣食住を親にいつまでも依存していると、「親が亡くなった時が危険だ!どうすんの?」ってよく聞く話はわかる。
だから親離れして、自分で稼げるようになれと。
一人で生活だけでなく、精神的な自己管理も。
ただ、収入源を会社にだけに依存してるのだって、危険といえば危険。
みんな会社1つに依存して雇われてるほうが、ずっと安定だと思ってるのがまだ多い。
30万の収入が1ヵ所からだと、解雇された時の精神ショックが半端がない。
できれば、収入源が合計3ヵ所とか10ヵ所に増やしていくのがいい。
だから依存先を増やすことが大事だというのは、いかに良い依存ができる依存先を増やすかということ。
・友達や知り合いの人脈を増やす
・福祉や支援サービスなど手段を見つけておく
・収入源の先の数を増やしていく
とくに友達や知り合いというのは、一人でも二人でもいたほうがいいかもしれない。
関わると面倒な人はいるけど、誰かと繋がってるのが一番重要だなと。
交友関係が浅い人にこちらから相談してみるとね、意外と頼れる誰かを紹介してくれたりとか、連鎖網が発生するもんだから。
もちろん、同じ人にいつでもは頼るのは無理だから、頼れる人を一人でも多く繋がること。
色んな人に助けられたら自分ができることで助けてあげれる、相互に支え合う関係。
一緒にいてくれるだけで支えになるという人も思ってくれる人がいるのなら、それも強み。
話してて楽しいとか、一緒にいてくれるだけで癒されるとか、相手にとって「いなくならないでほしい」って思ってくれる人は、誰にだっているはず。
一人で乗り越えなければならない場面もあるも確か
「一人で乗り越えなければいけない状況だってあるんだよ!」って思う人もいて当然。
それもそうだなと。
例えばの話、一人で人の気配のない山道にドライブに行って、事故を起こしてしまったら。
電波もなくて、誰も助けに来てくれない場所で、一人で何とかして生き残らないといけない、死線と隣り合わせのサバイバル状態とか。
車の応急処置やら何やら自分でやらないといけないとか、全く頼れる人がいない状況。
日頃の知識や技術の蓄えが生かされるとき。
その時はその時で、今まで自分で培ってきた知識や力で、何とかするしかない。
常日頃、暇の時間があれば、防災のこと、法律のこと、お金の手続きのこと、調べれる限り調べ尽くせばいいんだろうけど。
暇な時間は人がどう使おうが人の自由だから、好きなようにするのがいいと思う。
究極的に言えば、その時になったらその時で、あとは自分で何とかしろ! しかない。
「無知ほど怖いものはない」って言葉の通り、
ある程度はニュース見て、今世の中で起こってるぐらいは把握しておいたほうがいいかもしれない。
税金や法律のこととなると、何から何までマスターするのには、時間がいくつあっても足りない。
といっても、必要なことだとわかっても好きじゃない勉強尽くしだと、そんな人生は心から楽しくないだろう。
一人で処理しきれない専門的なことは、専門家に金払ってでも相談したり頼ったりしたほうが、時間の節約にもなる。
迷惑かけたくないとかの要らない気遣いはいらない
よくいう迷惑というのは、
「夜中に騒音起こして近隣住民に睡眠不足に陥れる」とか、「そこら中にゴミを勝手に撒き散らしたり」とかの厄介事。
それでも、警察に役割ができるわけだけど、警察からしたら給料増えるわけでもないから、できればやりたくないこと。
でもそういう迷惑のことじゃなくて。
この社会の中で生活してる時点で、誰だって負担という迷惑を必ずかける。
その負担という迷惑が、嬉しい役割だと思ってくれる人に任せればいいんだよと。
いかに、お互いが強みでフォローしあって、お互いが弱みをカバーし合う関係や組織体制をどう上手く作れるかってことで。
自立してると思ってる者同士がつるんでも、何の得があるのか。
「余計な手助けは何一ついらない!」とか「全て自分で乗り越えろ!」って言うし、
そういう人たちは、他人の粗探しばっかするようになって、「ダメなところは一切認めない、お前の存在を認めない」って言う。
ダメな所を克服して自立しようというのは無理がある話だよと。
人間は誕生してから、色んな人に依存しあって関係を作ってきた。
なのに「依存したくない」と言ってる時点で、自分を偽ってる人生を送ってる。
それと反して「自分は色んな人に依存してる」って自覚してる人ほど、相手に感謝できる心を持ってる人多いなと。
できないこと、やりたくないことをやってくれてることに「やってくれてありがとう」って、口にはできなくても感謝していると思うんだよ。
感謝というのは「お互いの存在を認め合う」ことでもあるから。
それなのに、ニートの人が自信を無くすのは。
親とか年配者が、「お前みたいな奴は他人に迷惑をかけてばかりで、社会にいらないダメ人間だ」
とか言い聞かせて、反骨心を煽って行動を促そうとしてるけど。
いや、それ逆効果だし感謝どころか「そんなに言うんだったら生まなきゃよかったのに」って捻くれてしまうほうだよ。
すでにダメな自分だと自覚してるのに、「こんな出来損ないの自分、この世からいなくなればいいのに」って、さらに自己嫌悪するだけだから。。。
どれだけ涙を流しても救われない・・・これが虚しさと悲しみで溢れてる世界。。。
確かに「依存は悪いことだ」ってネガティブイメージと認識されてるし、迷惑が起こることもある。
それは「されてほしくない依存」だったり「1つだけしかない依存」だったりするからトラブルがよく起きるのであって。
それは依存先が間違ってたり依存する数が少なかったりってこと。
多くの人が、衝突を避けてたり気遣いしすぎて遠慮してるなって。
でもそろそろ、気遣いしすぎの空気の時代に終止符をつけたい。
依存を迷惑と考えるんじゃなくて、
自分の長所は頼られる武器で、自分の短所は相手に存在価値を与えれる居場所となるものと考えるといいんだよ。
アレもダメ、コレもダメ、ダメすぎるものを多く持ってる人というのは、それだけ色んな人を輝かせれるってことにも繋がるから。
依存は人との役割を作るもの。
これから少しづつでも、誰かに頼ってみることをしてもいいんじゃないかな。
といっても僕はしばらく、一匹狼でいるかもしれないけどなー。
とまぁ以上になるけど、
ほとんど地雷屋さんの言葉を借りて書いてきた(^^;
でも僕のサイトに来る人に対して、この話を聞かせたかった。
ここまで読んでくれた人がどれだけいるかわからないけど、読んでくれてありがとう。